LOGIN連れてこられたのは、都心の一等地に建つ高級タワーマンションだった。地下駐車場に入るだけでカードキーの認証が必要で、エントランス、専用エレベーターと何重にもセキュリティが敷かれている。エレベーターも居住者の権限がなければ階数を押せない仕組みらしい。「こんなところ……」最上階近くの部屋に通されて、さらに言葉を失った。壁一面のガラス窓の向こうに、東京の街並みが広がっている。複数の寝室がある三LDK。家具も家電も、すでにすべて揃っていた。「ここなら、あいつらも踏み込めない」部長は淡々と言った。「ここって、いったい……」「俺が用意した」「用意したって、こんな部屋を……」数時間でこんな部屋を手配できるものなのか。いくらエリートでも、個人でできる範囲を超えている。戸惑う私を見て、部長はふっと小さく笑った。「勘違いするな。俺の私邸じゃない」「え……?」「今は、お前をこれ以上追い詰めさせない」「不倫はしない」その言葉が車の中で聞いたときと同じ重さで蘇り、胸の奥が小さく痛んだ。「……わかってます」「なんだその顔は」「何でもありません」これ以上惨めな気持ちになりたくなくて、話を逸らした。「あの、ここ、家賃はいくらなんですか」部長が一瞬、言葉に詰まった。「……そこを気にするのか?」「当たり前です」自分の給料で払えるような部屋ではない。裁判がどれだけ長引くかもわからない。「カードも使いたくないし、現金も底をつくかもしれません。こんな家賃、払い続けるなんて――」「金の心配はしなくていいと言っている」「でも――」「必要ないと言っているだろう」その態度に、ますますわからなくなる。「どうしてそこまでしてくれるんですか」気づけば、口をついて出ていた。「赤の他人の私に、どうして」部長の目をまっすぐ見返す。「お金なら、母の遺産を相続できたら全額お支払いします。昨日、自分にも利点があるって言ってましたよね」「そんなもの、端からいらない」迷いなく否定される。「榊原の財産に、一片の価値もない」「じゃあ……」それなら、なおさらわからない。「どうしてここまで助けてくれるんですか」短い沈黙のあと、部長が口を開いた。「……正式に離婚したら、俺と結婚してくれ」「……えっ」聞き間違いかと思った。「けっこん……?」「ああ」「私と、で
部長と久我先生が帰ったあと、広すぎる部屋に一人だけ残された。テーブルの上には、渡されたばかりの書類の束。そんなことより、別れ際、部長は言った。不倫はしない、と。それが正しいことくらい、頭ではわかっている。わざわざ自分から不利な立場に足を踏み入れる理由もない。それなのに、胸の奥に黒い澱のようなものが残っていた。「どうして、こんなに悲しいんだろう」誰もいない部屋で呟いて、そんな自分に嫌気が差す。断られたことが、思っていたより深く突き刺さっていた。昨夜は酒の力を借りていたとはいえ、心のどこかで一線を越えるつもりだった。長年秘めていた気持ちに、彼の優しさを重ねていたのかもしれない。でも、今の部長にとって、私はそういう対象ではないのだろう。考えてみれば、元夫からも求められた記憶はなかった。一年一緒に暮らして、肌が触れることすらなかった。妻としても、女としても、何かが足りないのかもしれない。「もうやめよう、こんなこと考えるの」これ以上考えても惨めになるだけだ。それより、これからどう切り抜けるかを考えなければ。ただ、一つだけわからないことが残っていた。どうして部長は、ここまで私のために動くのか。不倫はしないと言い切り、裁判で不利にはさせないと誓い、久我先生まで連れてきて、水面下ですでに動き始めている。昨日、自分にも利点があると言っていた。榊原の財産絡みの話なのだろうか。もし母の遺産を取り戻せたら、その一部を渡すことになるのか。そう考えれば、少しは筋が通る。そんなことを考えていたとき、インターホンが鳴った。久我先生の忘れ物だろうか。モニターに歩み寄り、映像を見て、血の気が引いた。見知らぬ、険しい表情の男。しかも一人ではない。背後に体格のいい男たちが何人も控えている。全員ダークスーツ。ホテルの従業員でないことはひと目でわかった。「……誰なの」父が私の居場所を嗅ぎつけたのか。震える手で扉を開けるべきか迷っていると、スマートフォンが鳴った。画面には「小松部長」の文字。「はい……っ」
俺はすぐに義父へ電話をかけた。「澪から離婚の通知が来ました」『なんだと?』 電話の向こうで声が荒くなる。きっとそんなことを想像もしていなかったのだろう。「弁護士を立てています」 事務所名を告げると、しばらく沈黙があった。『澪がそこに依頼したのか?』「そう書いてあります」『馬鹿な……』 義父の声が明らかに変わった。俺と同じ考えだったのだろう。あまりにも大手過ぎる。『そこは金だけ積めば、突然の個人案件をすぐに引き受けるような事務所じゃない』 あの澪に誰が手を貸した?澪を匿い、弁護士まで用意した人間が。「居場所を調べます」『待て。勝手なことをするな』「ですが、このままでは――」 俺を制止すると、義父が歯ぎしりをする音が聞こえた。その不快な音に、俺は表情をゆがめるがそれは見えないから問題ないだろう。『澪には何もできん。金も自由に使えないようにしてある。お前も澪のカードを全部止めろ』 その言葉に、俺は言葉を捜した。俺のカードなど澪には渡していない。
◇◇ Side 恒一 澪が家を出たことに気づいたのは、その日の夜だった。 正確に言えば、朝から姿を見ていないことには気づいていた。 だが、どうせ少し頭を冷やせば戻ってくると思っていたのだ。「まだ帰ってないの?」 リビングのソファに座った美咲が、不安そうに俺を見上げる。「放っておけばいい」 そう答えながら、スマートフォンをテーブルの上へと置いた。 連絡はないが、もちろんこちらから連絡するつもりもなかった。 昨日から澪の態度は明らかにおかしかった。 美咲がこの家に来たことが気に入らないのだろう。 昔から美咲を疎んでいたと聞いていたが、まさか食事にまで細工するとは思わなかった。 一度くらい痛い目を見たほうがいい。 自分がどれほど恵まれた立場にいるのか、少しは理解するだろう。「でも……お姉さん、私が来たから怒ってるんだよね」「美咲のせいじゃない」「でも……」 俯いた美咲の頭を軽く撫でる。昔からそうだった。美咲はいつも周りを気遣う。 自分が我慢すればいいと言って、何でも飲み込もうとする。 それに比べて澪は――。 そこまで考えたところで、ふと違和感を覚えた。 朝食のあと、澪はどこへ行くとも言わなかった。 いつもなら、出かけるときには必ず俺に伝えていたはずだ。 夕食の時間になっても戻らないことなど、この一年、一度もなかった。 だから何だというのだ。少しぐらい自分の立場をわからせるべきだ。そう思った俺だったが、ふと腕に触れた美咲の手で我に返る。「電話してみたら?」「いや、行くところもないんだ、帰ってくるだろう。甘やかすわけにはいかない」 そう言い捨てると、美咲は泣きそうな顔をする。「でも、お姉さんに何かあったら、私……」 美咲に言われ、仕方なく澪の番号を表示する。 数回の呼び出し音がするが、し
「考え直した」「……はあ」「お前が、そんな男たちのために不貞を働く必要はない」「でも、それでは離婚したいと言っても――」「できる」短い一言に、続く言葉を失う。助けを求めるように隣の弁護士を見る。久我先生は分厚いファイルを開きながら、静かに話し始めた。「まず、ご主人からの身体的DVの件ですが」頬にそっと手を当てる。腫れは引いていたが、皮膚の下にまだ鈍い痛みが残っていた。「……一度だけです。殴られたのは」「一度でも暴力は暴力です。立派な離婚事由になります。それから、血の繋がらない異母妹を自宅に住まわせ、夫の寝室で寝泊まりさせているという同居環境についても」「はい。でも、それが本当に離婚理由になるのかは……」「調べればいいだけの話だ」部長が遮った。「それと、父から継いだはずの財産のことも、根本から確認する必要がある。名義は自分のものだと言っていたが、正確な内容や通帳の在り処を、お前は今、把握しているのか」核心を突かれ、言葉が出なかった。母が亡くなり、相続の説明を受けたはずだった。でもその隣にはいつも父がいて、私が質問しようとするたびに割って入り、代わりに答えた。渡された書類に、言われるまま署名と捺印を重ねただけだった。思い返せば、あちこちに不自然な空白がある。「……あまり、わかっていません」正直に言うと、部長の表情がさらに険しくなった。「やっぱりか」そう呟いて、久我先生に目を向ける。「実家側が隠している財産も含めて、すべて洗ってくれ。向こうの顧問弁護士には、こちらの名前を出すな」「承知いたしました」現実が、私の意思とは無関係なところで動き始めている。「ちょっと待ってください」思わず声が出た。二人の視線がこちらを向く。「こんな大がかりなこと、費用はどうなるんですか。私、払えるかどうか……」蓄えがまったくないわけではない。でも夫に
目を開けると、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。見覚えのない天井。やけに広いベッド。頭の芯がまだ痺れていて、状況を理解するのに数秒かかった。そうだ、昨夜、私はすべてを置いてあの家を出た。 そして、小松部長と――。「不倫……」声に出した途端、昨夜の熱が急速に冷めていく。何を考えていたんだろう、私は。あの結婚生活から抜け出したかった。慰謝料を請求されても構わない、そのつもりでいた。でも、だからといって部長を巻き込んでいい理由にはならない。しかも彼には婚約者がいるはずだった。跳ね起きるように上体を起こす。どうして昨夜、あの場で確かめなかったんだろう。酔っていたとはいえ、あまりにも軽率だった。「断らなきゃ。こんな関係、今すぐ終わらせないと」震える手でスマートフォンに伸ばしかけたとき、インターホンが鳴った。こんな時間に誰だろう。ルームサービスか清掃か、そう思いながら壁のモニターを覗き込んで、私は固まった。「……部長?」声が裏返った。慌ててロックを開ける。「おはようございます」穏やかにそう言った部長の背後に、見知らぬ初老の男性が立っていた。五十代半ばだろうか。仕立てのいいダークスーツに、重そうな革の鞄。「入ってもいいか」「あ……はい、どうぞ」わけもわからないまま二人をリビングへ通す。ソファに腰を下ろした男性が、名刺を差し出してきた。個人名より先に、大手法律事務所の名前が目に入る。「弁護士の久我と申します。小松さんから、昨夜のうちに大まかな事情は伺っております」「弁護士……ですか」隣に立つ部長を見上げる。彼が弁護士を用意すると言っていたのは覚えている。でも、翌朝いきなり本物を連れてくるとは思っていなかった。「あの、その前に部長」「なんだ」「昨日の話なんですけど」言葉が喉に詰まる。それでも、言わなければ後悔する。「やっぱり、不倫なんてやめにしましょう」部長の眉がわずかに動いた。「私が言い出したことなのに、こんなことを言ってすみません。でも部長には、結婚を誓った方が――」「いない」「え……?」「婚約者は、もういない」言葉が出てこない。「でも、会社にいたときは、お似合いの人がいるって……」「破談になった。それだけだ」まるで天気の話でもするような口調だった。これ以上踏み込んでいいのかもわからない。「それでも、
都内でも名の知れた高級ホテルの最上階。大きなガラス窓の向こうには夜景が広がり、柔らかな照明に照らされた店内は、静かで落ち着いた空気に包まれている。食器が触れ合うかすかな音と、抑えられた会話だけが上品に響いていた。スタッフに名前を告げ、案内されようとした、そのとき――「恒一さん!」弾んだ声が、空気を破った。振り向くと、そこには見覚えのある父、そして継母、義妹の姿があった。義妹の美咲はまっすぐこちらへ駆け寄ってくる。淡い色のワンピースを揺らしながら、迷いなく距離を詰めてくるその姿に、私は思わず目を見開いた。そして彼女は、ためらいもなく恒一さんの腕に触れる。「久しぶりです、会いたか
黒崎家のリビングは、夜半を過ぎるとひどく広く感じられる。天井まで届く大きな窓の向こうには都心の灯が淡く滲み、磨き上げられた大理石の床にはその光が揺れている。けれど、その冷ややかな輝きとは裏腹に、室内には人の気配がほとんど存在しない。私はソファの端に腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、ただ静かに時間が過ぎるのを待っていた。 黒崎澪、二十六歳になる。旧姓は榊原だ。 榊原グループの令嬢だった母と、その家に婿入りした父との間に生まれた一人娘である。背中まで届く黒髪はひとつにまとめていて、淡いベージュのワンピースも、誰に見せるわけでもない室内着にすぎない。整った目鼻立ちとどこか儚げな雰囲気
「……飲めるか?」会社にいた時、飲み会の席はもちろんあったが、家のこともありあまり出席をしていなかった。部長が私がアルコールを飲むか飲まないかは知らないだろう。私自身、それほど得意ではなく、ほとんど口にしないが、今日はなんとなくいろいろなことがあり気持ちも高ぶっていて、飲みたい気分だった。「少しだけなら」そう答えて、口をつける。渋みと香りがゆっくりと広がっていくのに、心だけが落ち着かない。向かいに座る部長は、相変わらず無駄のない所作でグラスを持ち上げていた。何も聞かないのは怒っているからだろうか……。沈黙が落ちる。それに耐えきれなくなったのは、私のほうだった。「本当にご迷惑
あの食事会から一か月近くが経つが、恒一さんとは相変わらずの日々が続いていた。 毎日彼のシャツにアイロンをかけ、食べるかわからない食事を作り、待つ日々。彼は社長として多忙な日々を送っていて、感情をあまり表さない人だと思っていたが、それは違ったのだ。 美咲と話すときの恒一さんは、私の知っている人とは違った。冷たいのは私に対してだけだった。そのことは少しずつ私の中で、このままでいいわけがないという思いに変わっていった。どうにかして離婚を――そう考え始めたとき、ありえない連絡が入った。「美咲を、しばらくお前の家で預かってほしい」父からの電話に、私はさすがに「は?」と声が漏れていた。「な







